NEWS / リレーエッセイ
2022.10.28

三寒四温 ~こころをつなぐリレーエッセイ~【10月号】

三寒四温 ~こころをつなぐリレーエッセイ~【10月号】

今月のエッセイは中区で活動するケアマネジャーの平野健子さんです。制度の範疇に収まらないユニークな取り組み「おうち劇場」について書いてくださいました。

前衛舞踏家が自宅で踊る「おうち劇場」

「一人一人に合った」「その人らしい」ケア、というのはよく語られる言葉ですが、実際に介護の現場でそれができているかというと、なかなか難しいのではないかと思います。その方が個性的な人であればあるほど、ハードルは高くなるかもしれません。
矢立丈夫さんと妻の悦子さんがお住まいの自宅マンションで月1回開催されている「おうち劇場」は、まさにその方らしさにあふれた、このご夫婦ならではの取り組みと言えるでしょう。

矢立さんは若い頃は測量士として南洋の島でお仕事をされたりしていましたが、30代からは小さな出版社をおこし、現代詩や写真など、アート関係の本を作ってこられました。芸術性が高く前衛的なものがお好きで、特に1960年代からフランスをはじめ世界的に活躍した前衛舞踏家・大野一雄(2010年、103歳で死去)には大きな関心をもち、矢立さん自身による大野へのインタビューで構成された『わたしの舞踏の命』という本を出されていました。

アルツハイマーと脳血管性の認知症で、要介護5になっていた矢立さん。4年前、ケアマネとしての毎月の訪問のある日、妻の悦子さんが、私にその本を渡されました。「お知り合いに大野さんのお弟子さんがいらっしゃると言われてましたよね。その方にこれを差し上げてください」。大野研究所の研究生で、晩年の大野一雄のお世話もされていた加藤道行さんという舞踏家と、私がたまたま数年前に知り合っていて、そのことを悦子さんにお話したことがあったからです。
本をお預かりした私は、どうせなら加藤さんにただ渡すだけでなく、矢立さんと直接会ってもらったらどうかと考え、悦子さんの了解を得て、加藤さんに矢立さんのご自宅にいらしていただくことになりました。
「大野一雄先生のお弟子さん」と悦子さんが紹介しただけで、ぼんやりしていた矢立さんがふっと顔を上げられましたが、加藤さんが矢立さんのベッドの周りで持参した音楽をかけながら踊り始めると、ぱあっと表情が変わり、2人を囲む空間に光がさしたかのようでした。
矢立さんの変化を目の当たりにした悦子さんと私が感激し、これを1回きりで終わらせたくないと加藤さんと相談して、その後、月1回、前衛舞踏家が自宅で踊る「おうち劇場」が開かれることになったのです。

加藤さんは自分だけでなく、歌手の莉玲(りれい)さんや大野研究所のお仲間など、知り合いのアーティストを次々連れてきてくださいました。歌、踊り、笛、ギターとにぎやかです。悦子さんも、どなたでもいらしてくださいとご自宅を開き、お茶やお菓子でもてなされました。ふだんは介護者である悦子さんにとっても、おうち劇場の時間はピアノを弾いたり、歌を歌ったりできるリラックスタイムです。
ガングドラムという、やさしい音色の金属製の打楽器は矢立さんもお気に入りで、興が乗るとばちを手にとり、叩いて演奏に参加されます。

コロナの期間中はオンライン開催を余儀なくされ、ご自宅に行くのは加藤さんだけになるという制約はありましたが、月1回のペースを崩さず、タイやブラジルからもzoomを繋ぐ参加者がいて、不思議な空間を楽しみました。

おうち劇場を始めた頃は、ほとんど会話ができなかった矢立さんですが、いまはムラはあるものの、単語だけではない会話ができるようになっています。矢立さんのケアには介護保険サービスでも多くの人がかかわっていますが、認知機能の明らかな改善に、おうち劇場の果たした役割は大きなものだったと思います。

今後は感染対策をし、若干の人数制限をしながらですが、以前のようにご自宅に人を招いての開催を予定されています。臨床美術や音楽療法など、アートの力を使った認知症ケアの取り組みがより身近なものになり、できれば少しでも公的支援を受けられるようになると嬉しいですね。

※平野健子さんのプロフィール
ケアマネジャー。中区滝之上の自宅で「ケアマネ事務所もりのきもち」を開業。「認知症カフェおしゃべりば」運営委員。

前衛舞踏の様子